アルソウム族と宗教( 中世ギベオン教団の成立と特徴・ アンツィラバの乱とアサブ教団・ウアカパ派の分派)

中世ギベオン教団の成立と特徴

次に大きな契機となったのは、644年、アルソウム族のアバルサ王国の首都マレブで始まった古代ギベオン教団の改革運動であった。この時期、対話録や講話集、神話、神謡などの収集と整理、注釈、そして正典の編纂が各地で試みられていたが、その中心であったのがマレブである。

この正典編纂活動の中から現れたのがマレブ青年派と呼ばれる教団改革派であった。

マレブ青年派は商工業を本業とする若手の信徒たちによる運動で、教兄・教姉の采配による儀式を重視した初期ギベオン教団のあり方を批判し、対話による正典の解釈の正確さの追求を重視していった。この時点ではまだ写本の系統によって異同が大きかった初期ギベオン教典群は、内容の整合性の観点から分類・整理が行われていたが、この作業における徹底的な対話を重視したのが、この運動である。

やがてマレブ青年派は、この膨大な対話とそれをもとにした教典解釈に専念する「精釈士」と呼ばれる存在を生み出し、各地に彼・彼女らの活動拠点となる精釈院を建設してゆく。これらの精釈院は中世のアルソウム社会における学問の中心となり、神学・医学・農学・林学・天文学・地学・法学など様々な学問がここで誕生することになった。

一般的にはこの時代のギベオン教団を中世ギベオン教団と呼ぶ。

初期ギベオン教団と中世ギベオン教団の違いは、正典化された教典群の確立、精釈士・精釈院の存在、そして祭祀における講話の発達とされる。講話とは教典、特に対話録の内容をわかりやすく噛み砕いて一般信徒に聖職者が語り聞かせるもので、その内容は「善き人間としていかに生きるべきか」というものであった。言い換えるならば、初期ギベオン教団が神々をいかに祀り、いかに鎮めるかを主な問題としていたのに対し、中世ギベオン教団はより信徒の精神生活全般に踏み込み、道徳の体系としての性格を強めていったのである。

もともと商業の民であったエマオ系の帝国民たちと、農業や牧畜業を生業としていたそれ以外の諸民族とでは道徳に対する考え方も異なっていたが、それらが膨大な神秘的体験とその解釈を通して融合し、特定の生業や民族にとどまらない、あらゆる人間に対して説得力を持つ普遍的な道徳の体系に進化したことが、ギベオン教の世界宗教化の原動力となったという説も有力である。

アンツィラバの乱とアサブ教団・ウアカパ派の分派

次に大きな動きがあったのは、1169年から1175年にかけてのアンツィラバの乱の時代である。

全アルソウム社会を巻き込んだこの大乱により「六冠の地」のギベオン教団も大きく荒廃した。この時期に多くの聖職者が周辺のエマオ王国やバツェ王国、ハミジエ王国、マレブ王国に逃れた結果、これらの地域のギベオン教団は勢力を増すことになった。特にエマオ王国ではその傾向が顕著であり、「六冠の地」と並ぶ強力なギベオン教団の組織が確立された。それまでギベオン教団の最も大きな神殿があったのはマレブであったが、アンツィラバの乱が始まって2年目の1171年にマレブからエマオ王国の首都ウェトラに多くの聖職者が避難し、ウェトラのギベオン教団組織は大きく拡張された。これ以降、ウェトラのギベオン神殿はギベオン教団の神学研究の最大の拠点として大いに栄えることとなる。

一方、この戦乱の中で個人の心の救済に主眼を置く経典解釈を行うアサブ派、ウアカパ神による未来世での救済を説くウアカパ派が「六冠の地」で新たに力を持ち、1174年にはアサブ教団が、1188年にはウアカパ派がギベオン教団から分離していった。

1188年のウアカパ派分離以降を、現代の歴史学では近世ギベオン教と呼ぶ。

更に1258年にはウアカパ派から新ウアカパ派が分離している。両派は教義の上では大きな違いは無く、この分離は1000年代にギベオン教団内でウアカパ派を創始した4人の教導士に特別な地位(大教導士)を認めるかどうかという部分の意見の違いによるものであった。

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