アルソウム族と宗教(四宗派の発展・大学の登場・連合王国議会の成立)

四宗派それぞれの発展

こうしていわゆる公認四宗派と呼ばれる四つの宗派が成立したわけだが、中でも最も目覚ましい発展を見せたのはアサブ教団である。アサブ教信仰の中心となったのは主に都市部の住民たちであり、アンツィラバの乱の収束後の都市の発展と歩調を合わせて、アサブ教の信徒は激増していった。ギベオン教団との間で確執や争いが無かったわけではないが、アルソウム族にとってアンツィラバの乱の記憶は強烈であり、武力紛争を伴う宗教戦争のような事態に至ることは無かった。六冠の地の支配層であった貴族たちは相変わらずギベオン教徒であったこと、紛争回避の手段として部族法の「第一の大契約:信義と奉仕」「第二の大契約:自由な意見の保証」が重視されるようになっていたことも、ギベオンとアサブの共存を可能にした。

一方、新旧のウアカパ派は既存の集落から離れた場所に聖堂を建てることを好んだ。その多くは丘の上や山の中腹にあり、信徒はそれらの聖堂を巡礼し、喜捨を行うというのが基本となる信仰形態である。当初は奇異の目で見られた新旧ウアカパ派のこうした信仰であったが、他の宗教と争うようなこともなく概して平和的な宗派であったので、1300年代には六冠の地の各地に広がり、その聖堂は山岳地域では珍しくない風景となっていった。

またこの時期はアルソウム族の人口が増え続けていた時代でもあり、ギベオン教団の信徒数も緩やかに、そして着実に増え続けていた。

大学の登場

ギベオン教団の精釈院は中世ギベオン教団の時代から南大陸中央部における各種の学問の場であり、それはアンツィラバの乱を経てアサブ教やウアカパ派が分離していった後も、同様であった。対象を虚心坦懐に見て、徹底的に討論を重ねて矛盾点を減らしてゆくという思索の方法論が、学問と非常に相性が良かったことが、その理由である。

アサブ教や新旧のウアカパ派でも学問は行われていたが、「六冠の地」の人口のおよそ六割を信徒に持つギベオン教団の資金力、人材、そして書庫に保管される膨大な文献は、こと学問という点では他の宗派を圧するに足るものであった。

一方、アルソウム社会で商工業が発達し、官僚機構が整備されるにつれて、高い教育を受けた人材の需要は高まっていた。これを好機と見たのが、中規模の貴族の子弟である。彼らは各地の精釈院を回って学問を身に着け、官僚として登用されることを目指した。

こうして「六冠の地」の各地には放浪学生の姿が見られるようになり、「学生の道」あるいは「学問の道」と呼ばれる街道が主街道の周囲に生まれていった。宗教史研究では近世と呼ばれるこの1200年代から1300年代に放浪学生たちの目的地となったのは、以下のような場所である。

マレブの大図書館

チェレク精釈院

カリュベス精釈院

ラウテル精釈院

アルメルの第二神殿

ブレルの丘の精釈院群

コトバイのギベオン神殿

ラタンション精釈院

ゼルワの旧ギベオン神殿

このうちマレブの大図書館とアルメルの第二神殿は市壁内にあったが、それ以外は全て街から少し離れた場所に立地していた。これらの中で特異な地位を占めていたのはブレルの丘の精釈院群である。西はゼルワ付近から東はレナ付近まで、ブレル侯爵領を挟んで広がるこの丘陵地帯には三十を超える精釈院が点在しており、それぞれ葡萄を栽培して葡萄酒を収入源としながら、学僧たちは学問に勤しんでいた。

放浪学生たちはコトバイのギベオン神殿、ゼルワの旧ギベオン神殿、そしてブレルの丘を行き来しながら資料を調べ、学僧たちに教えを請うていたが、やがてこの地域の「学生の道」の結節点として常に学生たちが逗留するようになったのが、ダナエの街である。

この地理的な特徴が決定的な要因となって1388年に設立されたのが「ダナエ学生組合」、後のダナエ大学教養学部であった。ダナエ大学の設立に少し遅れてマレブ大学が設立され、チェレク、アルメル、カリュベスと「アルソウムの五大学」と呼ばれる大学が次々に設立されることになる。

このようにして、それまでギベオン教団の中にあった学問の場が教団の外に移されると、アサブ教団や新旧のウアカパ派の学僧たちの一部は五大学の教員となり、アルソウムの五大学の神学部は特定の宗派を越えた、総合的な神学研究の場となっていった。

連合王国議会の成立

帝国歴1418年に「アルソウムの六つの冠」がカルム大王によって統一され、ヤムスクロ王国のゼルワに新しい首都を建設することが決まると、寵臣(現在の首席大臣と財務大臣を兼ねた役職)ベティエ公伯爵は六領邦それぞれに置かれている議会を新しい首都に集めることをカルム大王に提案した。これは、今やアルソウム族の六祖に由来する六つの冠を一人で継承した「六冠の主」が、グアダムル、ブレル、アルメル、マレブ、カリュベス、ラタンションの六つの街で開催される議会全てに出席することが事実上不可能だったからである。

各領邦の議会との調整には足掛け7年を要したが、最終的に1424年6月より、ゼルワの新王宮の右翼の二階南端に連合王国国会議事堂が設けられ、六領邦から集まった議員たちによる第一回連合王国議会が開催された。議席数の配分の決定は困難を極めたが、最終的には「各領邦の伯爵、侯爵、公爵およびタンボラ親王家に1議席ずつ、自治都市に1議席ずつ、主要な組合の代表に1議席ずつ、各領邦の世俗の代表に10議席ずつ、各領邦の聖職者の代表に5議席ずつ」と定められた。

この時に問題になったのが、聖職者の代表をどの宗派に割り振るかということで、この時点で連合王国の中にはギベオン、アサブ、新旧ウアカパ以外にも20とも30とも言われる雑多な宗教団体が存在していたのである。それらの中にはギベオン教団を淵源とするものもあれば、ウォラグネ族やタンボラ族の民族宗教と考えられるもの、連合王国の外から伝播したものもあった。

ベティエ公伯爵は、連合王国議会がもともと「六祖西征」の際にアルソウム族が十日ごとに集まって行っていた話し合いに起源を持つとして、アルソウム族の祖先神であるウアカパの祭祀を続けていることを議会参加の第一の条件とした。

第二の条件は、連合王国議会の聖職者議員となるに際して「六冠の地においての六冠の至上権承認の宣誓」を行うというものである。

つまり、連合王国の最上位にあるのは「アルソウムの六つの冠」であり、これらの冠が命ずるところはそれぞれの奉ずる神々が命ずるところに優越すると認めた者のみが連合王国議会議員となれるのであって、聖職者であっても例外は認めないというのが、ベティエ公伯爵の考えであった。これは、宗教組織が連合王国よりも上位の存在の意を受けて連合王国議会で活動することを防止するために必要な措置とされた。

注意が必要なのは、議員以外にはこの「六冠の至上権承認の宣誓」は求めなかったという点である。その理由ははっきりしないが、連合王国内に中心がありつつも連合王国周辺に膨大な数の信徒を持つギベオン教団との全面対立を避けたという見方が有力である。

最終的にこの二つの条件を満たした上で各領邦での納税額に応じて議席を割り振った結果、連合王国議会に議員を送り込むことが出来たのはギベオン、アサブ、新旧ウアカパの四宗派であった。議席配分は毎年、納税額に応じて見直されているが、これらの四宗派以外が議席を持つに至ったことは無く、いつしかギベオン、アサブ、新旧ウアカパは「公認四宗派」と呼ばれるようになった。

ただし、この呼び方は俗称であり、これらの宗派以外が連合王国内で禁じられているわけではない。あまり知られていないことであるが、「六冠の主」はクルサ家が帰依するギベオン教の神々以外にも高祖リトムルと太母ブレドマ、グアダムル山の三頭竜、アタルテアとパルセノイの夫婦神など、「六冠の守護神」と呼ばれる神々の祭祀も行っており、中にはクルサ家の当主にしか詳細を伝えられない謎の神「五頭黒竜」の祭祀といったものも存在している。

タイトルとURLをコピーしました